2017.01.02 [ 齋藤 健太郎 ]

といっても一体なにがめでたいのか。

年を越したところで,地球が太陽の周りをほぼ1周したというだけで,何一つハッピーにはなりません。
あえてめでたいことを探せば,「また生存したままで年を越せた」ということなんでしょう。
だからこそ,喪中の場合には,無事に1年を過ごせなかったのでめでたくないということになるのでしょうね。

あ,もう一つ意味不明な言葉がありますよね。
「良いお年を」
これは,年末に使われる言葉ですが,年明け直前まで良いお年を過ごして下さいということのようです。

12月31日から1月1日に変わることについての人間の思い入れの強さには毎年驚かされます。
そのために年末は忙しくなり,混雑のなか活動し,おせち料理を作り,年越しソバを準備し,年賀状を書き,神社に初詣に行く。

まあ,それを言い出すと誕生日もそうです。
「また生存したまま年を重ねることができた」
ということでしょうか。
でも,誕生日の場合には喪中とかありませんよね。
親族の生存を個人の生存を重ねるのであれば,誕生日も喪中の場合には控えるべきではないでしょうか。
逆に,個人の生存を重視するのであれば,年明けにおいても喪中を考慮する必要はなく,むしろ病気や大怪我をした場合などには,めでたくないのではないでしょうか。

さらに突き詰めると,毎日の朝の挨拶は「生存できておめでとうございます」になります。
せめて毎月1日は「おめでとうございます」にしても良いでしょう。
月命日があるなら,新月の祝があってもいいでしょう。

全ては1年を区切るということに意味を見いだす人の習性なのです。
ぐだぐだと書いてみましたが,最初からそんなことはわかっています。

とはいっても,何らかの区切りがあることで,家族というか親族が集うことができ,1年を振り返り,滅多に会わない人との旧交を温めることには意義があるとは思います。

さて,このホモサピエンスの摩訶不思議なイベントをもう少し楽しむことにします。
今年はもう少し物事を素直に捉えられる人間になりたいです。