2014.07.22 [ 齋藤 健太郎 ]

前に「DNA鑑定の功罪」というテーマで記事を書きました。

そのときは,DNA鑑定のせいで今までわからなかった血縁関係が明らかになってしまうことの問題点について触れましたが,今回もその話をしたいと思います。

先日,最高裁判例がありました。DNA鑑定によって血のつながりのないことが判明した「父親」であっても,法律上は父親であり,例外は許さないというものです。
「嫡出推定」という規定がある以上(前のブログ参照),それを優先するというものです。

さて,変なことになってしまいました。
この四角四面のいかにも「法律」という感じの判決によって,世の中には,自他共に血のつながりの全くないことが判明している「父親」が存在することになりました。一方で,本当の父親はどうやっても法律上の父親になれないということになります(例外はありますが)。

たしかに,民法は,本当の父親じゃない場合があることを想定していました。でも,それは,本当の父親かどうかなんて調べようがないということが当然の前提になっていたのではないでしょうか。本当の父親がほぼ100%わかってしまうことは民法の想定していたものではないはずです。
父親というのは養子を除いて血縁関係にあるものを指しているのではなかったのでしょうか?

そもそも,繰り返し言われる「法的安定性」というのはいったい何でしょうか?
父親じゃないことがわかってしまった時点で,親にとっても子供にとっても,法律上父親かどうかはもはやどうでもいいことになってしまうのではないでしょうか?
法的安定性は,すでにDNA鑑定の存在によって害されてしまっているのです。
疑いを持たないようにするか,DNA鑑定の実施に制限をかけることができない限り,もはや歯止めはききません。
私には守るべきものがあるようには思えません。

私は,法は真実に謙虚であるべきではないかと思います。
新たな法律を作ることで解決すべきだというのも一つの考えだと思いますが,判明している真実との乖離がある場合に真実に即した解決を行わないことは法の自殺行為ではないかと思います。